THE KING OF COOL #5 〜THE BEACH BOYS〜
<Story Telling >
ロサンゼルスから少し離れたホーソン、このカリフォルニアの典型的郊外の街で彼らは育った。
クルマ、スポーツ、学園、そして、異性、
若者なら誰もがひかれるそんな興味に明け暮れる毎日。

ごくふつうの生活の中、このホーソンでは、特別なことがひとつだけあった。それは、海が近いということ。
わずか3マイルの距離にビーチがあった。若者たちにとって、そのビーチで楽しむサーフィンが、すべてに最優先することがらだったことは言うまでもない。

カール、ブライアン、デニスのウィルソン3兄弟もこのホーソンで育った。しかし、彼らが他の若者と違っていたのは、音楽に異常なまでの興味を抱いたことだった。3人は、いとこのマイク・ラヴ、友人のアラン・シャーディンをを誘い、バンドを結成した。

1961年12月、バンドは、地元のマイナー・レーベルから1枚のシングル・レコードをリリースする。「Surfin'」とタイトリングされたこのレコード、同時にバンドは“The Beach Boys”と名乗るようになる。
カリフォルニアの空には、雲ひとつなかった。

日焼けした肌とブロンドの髪、全ての悩みや心配ごとから解放された自由な生活、いつまでも沈まない夏の太陽、誰もが思い描くカリフォルニアのイメージ。ビーチボーイズは、そのイメージをその音楽で現実のものとした。「Surfin' USA」「Surfer Girl」「I Get Around」、、、彼らは次々に、ヒットを放った。

当時、アメリカは、中産階級の勃興が顕著にあらわれ、豊かで独立心のある若者のフィーリングが求めるもの、
それは、そのままビーチボーイズの音楽だった。50年代に生まれたロックンロールのうねりと開放感は、彼らの登場で、確実に若者の文化として定着していった。

1965年、ビーチボーイズに大きな転機が訪れる。ブライアンがステージへの不参加を表明。ブルース・ジョンストンが新たに加入し、ツアーは続行された。しかし、このころから、彼らのステージは、テクニック、パフォーマンスとも驚くべき成長を遂げ、ライブバンドとしてのビーチボーイズが確立される。

一方、ブライアンは、作品作りに没頭。それまでのサーフィン・サウンドから、ポップミュージックの模索とも言うべき実験的スタジオ・ワークの日々を送ることとなる。そして、発表された“PET SOUNDS”と未完のまま発売中止になった“SMILE”。そこには、すでにカリフォルニアの海で戯れる彼らの姿はなく、音楽的に成長し、社会意識を背負ったアーティストとしてのビーチボーイズがいた。

70年代に入ってもビーチボーイズは精力的にライブ活動を継続した。そのステージは、決して60年代への回顧的なものではなく、自分たち、そして観衆への時間の経過の自覚だった。「もう、サーフィン・サウンドを求める歳じゃないだろ?」そんな姿勢がうかがわれ、早くもAOR的音楽アプローチを見せ始める。
そんな中、一時的にブライアンも復帰するが、1983年には、デニスが死去。
70年代以降の彼らは、まさに不遇の時代といえるだろう。彼らのイメージとは、かけ離れた、常にアクシデントにみまわれながらの活動がビーチボーイズの軌跡でもあった。

1988年、「ココモ」が久々の全米No.1を記録する。我々はここに、世代を超えた“ザ・アメリカン・バンド”、ザ・ビーチボーイズの存在の大きさを再認識させられることになる。

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